「ディヴェルティメント KV.113」&「モーツァルトとクラリネットの出会い」 

                          三戸久史

  モーツァルト(W.A.Mozart 1756-1791)は1771 年11 月、ミラノでディヴェルティメント変ホ長調KV.113(第一稿)を書いたが、15才の作曲家にとって初めてクラリネットをこの作品で用いた。この時少年モーツァルトは第二次イタリア旅行中で父レオポルト(a)が同行していた。前年の2 月には、同じミラノにてオペラ・セリア『ポントの王ミトリダーテ』KV87(b)を初演して大成功を収めている(第一次イタリア旅行中)。

  モーツァルトが初めてクラリネットの音色に触れたのはいつ頃だったのだろうか? モーツァルトは父レオポルトに連れられ、1763 年(7才時)に第一次ロンドン旅行に出かけたが、1765 年、ヨハン・クリスチャン・バッハ(J.C.Bach1735-1782)の オペラ『シリアのアドリアーノ』 (c)の初演で、クラリネットの音色に触れていたのでは?と推測する。ロンドンにおいて、特にクリスチャン・バッハとの出会いは、少年モーツァルトの作曲技法に大きな影響を与え、両者は生涯に渡り親交を持った。クリスチャン・バッハからは、イタリア風の軽快で明るい表情を音楽に盛り込むこと、生き生きとした流麗な旋律を生み出すことを習得した。この両者はハープシコードの二重奏も行ったことが伝えられている。
ロンドン滞在中の1764 年9 月には初めての 交響曲第1番変ホ長調KV.16 が誕生(8才時)しているが、この作品は記念碑的なものとなった。ロンドンでのJ.C.バッハとの出会いは大きな収穫になったことは違いないが、アーベルC.F.Abel(1723-1787)(d)も、楽器の扱いや作曲スタイルを学び取っている。このことは、1764 年に発表した 交響曲第3番変ホ長調KV18 (e)で、クラリネットの扱いについて勉強の形跡が窺える。

  さて、ディヴェルティメント変ホ長調KV.113 はミラノで作曲され、元来8人の奏者を想定して書かれたが、恐らくアカデミー(f)にて演奏されたのでは?と推測する。これはロンドンで出会ったJ.C.バッハやアーベルが使用した楽器編成をモデルにしている。J.C.バッハ、アーベル、そしてカール・フィリップ・エマニュエル・バッハ(Carl Philipp Emanue Bach 1714-1788) (g)などは、第1楽章は軽快なアレグロ、第2楽章はアンダンテ、アダージョなど、終楽章(第3)は早いアレグロ(プレスト)、いわゆる急– 緩– 急 からなるシンフォニア(Sinfonia)を書いているが、これらの演奏時間は長くても11 分程度のもので、6曲をセットにしたシンフォニア集として出版された。

  モーツァルトはディヴェルティメント変ホ長調KV.113 (Allegro – Andante –Menuetto – Allegro) で、第3楽章にメヌエット(Menuetto)を置いているが、18世紀における交響曲の基礎(スタイル)を確立させたウィーン古典派の大家ヨーゼフ・ハイドン(Joseph Haydn 1732 – 1809) (h) の初期の交響曲にはメヌエット入りの4楽章からなる作品が1759 年頃に書かれた初期のシンフォニア(交響曲)より現れ始めるが、この頃ハイドンが採用し始めた楽章構成の影響を受けていることが判る。KV.113 の自筆譜には“コンチェルト(Concerto) 8 種の楽器のための”と記されており、編成は、2本のクラリネット、2本のホルン、ヴォイオリン(1 番、2 番)、ヴィオラ、チェロ(+バス)からである。ここで重要なことは、あえて8種の楽器による“コンチェルト”と記載していることである。ここでは一人一人の奏者が独立したパートを演奏し、各パートの楽器の音色(カラー)、ライン(各々の声部)が鮮明に浮かび上がるように書かれている。これは、モーツァルトの管楽器のためのセレナード(変ホ長調KV.375 及びハ短調 KV.388
では、各々2 本のオーボエ、2 本のクラリネット、2 本のファゴット、2 本のホルン)で、各々のパートが有機的に役割が与えられていることに同じ、つまりメロディー・ラインを受け持たない場合でも、埋没せず明確なバランスが保たれることを要求していることが判る。
以前このディヴェルティメント変ホ長調KV.113 を、弦楽:VnⅠ4, VnⅡ4, Va3、Vc3、Cb2 + Cl 2. Hr2 で演奏した経験があるが、やはり作曲家がイメージ(想定)した編成サイズに比べ演奏人数が多く、室内楽のように聞き合いながら演奏するスリリングな趣には欠けていたように感じた。思い返せば、テキスト(楽譜)に示された小編成で演奏することにより、最も相応しい各楽器間のバランス、色調、そして緊張感あるアンサンブルを実現し易いのではと考える。このディヴェルティメント変ホ長調KV.113 が初演されたアカデミーは、いわば会員制のコンサート組織で、話題の演奏家や作曲家を招き、新曲の初演を聴いたり新人演奏家を支援したりした。モーツァルトは後年ウィーンで、自作のピアノ協奏曲をお披露目する会員制の連続演奏会を企画したが、組織や形態は少々違っていても支援者、愛好家に支えられての演奏会であったことは相違ない。もっとも、ウィーンでの会員制コンサートは、特に晩年近くになると期待した程予約チケットが売れず、ウィーンでのモーツァルトの人気も下火になって行き、興行収入も行き詰まり困窮することもあったようだ。18世紀の有名なコンサート演奏(鑑賞)団体としては、フィリドールが開設したル・コンセール・スピリチュエル(i)が良く知られているが、定期会員は話題のアーティスト新作の演奏を聞くことができた。モーツァルトが自身の交響曲で初めてクラリネットを採用した交響曲第31 番ニ長調『パリ』KV.297 も1778 年6 月、ここで初演された。

(a) レオポルト・モーツァルト(Leopold Mozart 1719-1787) 1743 年からザルツブルク宮廷にヴァイオリニストとして勤務。 ヨーロッパの主要都市の宮廷などを、息子のヴォルフガング、娘ナンネル(Maria Anna 1751 – 1829)を連れて演奏旅行し、子供の才能を伸ばすこと、且つ就職活動にも熱心であった。現代風に言えば、強力なステージパパ と言える。1763 年に副楽長に昇進。1756年にに出版した「バイオリン教程」当時時最も重要な教本として広く用いられた。

(b) オペラ・セリア『ポントの王ミトリダーテ』KV87
1770 年、ミラノのテアトロ・ドゥカーレで初演された。この劇場は当時のミラノのオペラの中心であった。1776 年に火災で焼失し、その代わりにスカラ座が1778 年に作られた。
(c) ヨハン・クリスティアン・バッハ(Johann Christian Bach, 1735- 1782)の書いたオペラ。「Adriano in Siria」は1765 年1 月26 日にロンドンで初演された。J.C.バッハはドイツ生まれで、イタリアのミラノ等で過ごした後、1762年に英国ロンドンに渡り一世を風靡した。ロンドンのバッハと呼ばれた。大バッハ(J.S.Bach 1685-1750)の四男。
(d) カール・フリードリヒ・アーベル(Carl Friedrich Abel, 1723- 1787)
ドイツ出身、ヴィオラ・ダ・ガンバの名手。1759 年に英国に渡り、ロンドンJ.C.・
バッハに出会った。J.C.バッハと共に定期演奏会「アーベル=バッハ コンサート」を開催していたが、この人気があったコンサートは1765 年から1781 年まで続いた。アーベルは交響曲集(全6曲)を少なくても3セット書いていた。
(e) 交響曲第3番変ホ長調KV18  モーツァルトの作品として出版されたが、後にアーベルC.F.Abel(1723-1787)の6つの交響曲集Op.7Ⅵからのアレンジ(実際は書き移した写譜)であることが判明した。モーツァルトは、アーベルのオリジナルのオーエ・パートをクラリネットに置き換えている。モーツァルトが正式に自身の交響曲で初めてクラリネットを使ったのは、交響曲第31 番ニ長調「パリ」KV.297 である。
(f) モーツァルトは、イタリアのではボローニャのアカデミー・フィラルモニカの会員になっている。
(g) フィリップ・エマニュエル・バッハ(Carl Philipp Emanue Bach 1714-1788)は、大バッハ(J.S.Bach 1688-1750)の次男。

(h) ヨーゼフ・ハイドン(Franz Joseph Haydn 1732 – 1809)
モーツァルト、ベートーヴェンと共にウィーン古典派を代表する作曲家。
(i) ル・コンセール・スピリチュエル(Le Concert Spirituel)
1725 年にフィリドール(A.D.Fhilidor)がパリで設立した音楽演奏団体で、主にドイツ、フランスの音楽作品を中心に紹介された。1790 年まで続いた。