マンハイム訪問 (2001. Summer )                                        

                               三戸久史

 マンハイム(Mannheim)を訪れたのは、モーツァルト(W.A.Mozart 1756-1791)が演奏したといわれるバロック宮殿(Residenzschoß)【写真A】があること、そして何より18世紀の音楽シーンで一際輝いていたマンハイムの音楽家達が活躍した街であったことが引きつけられた理由です。南西ドイツに位置するマンハイムは現在人口約31万の都市で、18世紀当時マンハイム宮廷オーケストラはヨーロッパ最高の実力を持っていたとのことです。又マンハイム宮廷は「作曲家の楽園」とも言われ、ヨーロッパ中から優れた作曲家、ソリスト達が集められ一大芸術センターのような場所だったそうです。

 マンハイム宮廷は18世紀初頭、プファルツ選帝候カール・フィリップの治世(1716年から1742年)に基礎が築かれ、ドイツ・バロック最大の宮殿が建造されたのですが、この選帝候時代の宮廷オーケストラにはすでに約50名の音楽家から構成され、当時としては最大規模だったそうです。カール・フィリップにより招聘された優れた音楽家の一人であるボヘミア出身のヴァイオリン奏者ヨハン・シュターミッツ(Johannn Stamitz 1717-1757)は1740年頃にメンバーになり、その後コンサート・マスターに就任してマンハイム宮廷オーケストラの中心的存在になりました。J.シュターミッツはクラリネット協奏曲を1曲書いていますが、バロック・スタイルで書かれたこの協奏曲はすでにモーツァルトが満1才の頃には誕生していました。
 
 J.シュターミッツは1754年からのパリ滞在中にこのクラリネット協奏曲を書いていますが、何故マンハイム宮廷オーケストラの団員のために書かれなかったのだろうか?と考えるのは自然なことかも知れません。マンハイム宮廷には1758年には2名のクラリネット奏者が在籍していたことが判ってますが、J.シュターミッツの在任中には未だクラリネット奏者は雇用されていませんでした。クラリネットはフルートやオーボエ、ファゴットに比べると木管楽器中で最もオーケストラにおいて市民権を獲得するのが遅かった楽器でした。

 18世紀マンハイムの演奏家の活動状況や生活を知るにしても限度があり、誰にもその全てを知ることはできません。しかし当時の管楽器の名手達、例えば、オーボエのアレクサンダー・ルブラン、フリードリヒ・ラム、フルートのヨハン・バプティスト・ヴェンドリング、クラリネットのフランツ・タウシュ(彼らはマンハイム宮廷オーケストラで活動した)にしろ当時のヨーロッパを代表する名手達だったのですが、彼らに捧げられた独奏曲や自作の協奏曲等に接する限り大変な名手達だったことが判ります。しかし彼らのように名前が後生に伝わることの無かった優れた奏者も数多く存在したでしょうし、また散逸してしまった優れた音楽作品や楽器もあったことでしょう。いにしえのロマンとでもいいましょうか、しかし残された作品を前にして色々なことを想像してみます。どんな人物が演奏したか?どんな会場で又音響はどうだったのか? 演奏ピッチは? 照明の具合は? 暖房はどうだった? このマンハイム訪問で騎士の間(The Rittersaal)【写真B】に立った時、随分響きが豊であることが判りました。13メートルはありそうな高い天井、150名程度は入れる広さの総大理石製の広間での演奏は豊に鳴り響いたことでしょう。まさに古典クラリネット等古楽器を響かせるには最適だったと思うのですが、この騎士の間の天井には美しいフレスコ画が描かれており、シャンデリアも大変素晴らしいものでした。1777年11月にモーツァルト(1777年から1778年にかけてマンハイムに母と共に滞在した)もこの騎士の間で開かれたアカデミー(演奏会)で自作のピアノ・ソナタを弾き、又即興演奏も披露し拍手喝采を受けています。
このバロック宮殿は残念なことに第二次大戦で破壊されたとのことですが、見事に修復され、現在は一般に公開されている一部分以外はマンハイム大学の施設として利用されているとのことでした。

さて、カール・フィリップは1742年に没し、甥のカール・テオドーア(1724-1799)が後を継ぎますが、マンハイム宮廷オーケストラはテオドーア選帝候の時代に名声は頂点を迎えます。選帝候は宮廷オーケストラの拡大と質を向上させ一時は80名を越す楽員を抱えたとのことです。芸術に深い理解を持ち、音楽家にとっては太っ腹のパトロンだったと言えます。この第2世代に属するハンハイムの音楽家の中にはヨハン・シュターミッツの息子カール・シュターミッツ(Carl Stamitz 1745-1801)がいますが、クラリネット協奏曲を少なくとも12曲書いています。これらの協奏曲は1770年にパリに移動してから書かれていますが、カールは1762年から1770年までマンハイム宮廷オーケストラでヴァイオリン奏者を務め、ビオラやビオラ・ダモーレも演奏しました。 古楽器演奏団体のオーケストラ・シンポシオンに参加してCD録音『1770年台のニ長調・交響曲集』をしました際、クリスティアン・カンナビヒ(Christian Cannabich 1721-1798)の交響曲その他を収録しましたが、カンナビヒはヨハン・シュターミッツが没した後コンサートマスターに就任した人で、この人もマンハイムの音楽家の第二世代に属する人です。カンナビヒは自身の交響曲の中で、オーボエやクラリネットのパートに華やかはソロを与えていますが、オーケストラの管楽器ヴィルトゥオーソ達を想定して書いたことは言うまでもありません。

またマンハイム滞在中のモーツァルトを好意的に持てなし、作曲技法上の影響を与えています。モーツァルトが1778年にマンハイムを発ってから3ヶ月後に書いた交響曲第31番ニ長調「パリ」KV.297はマンハイム滞在中に学んだ作曲技法を用いていることがわかります。この曲はモーツァルトの交響曲全41曲中、クラリネットを採用した最初の曲ですが、パリのコンセール・スピリチェル(Concert Spirituel)での初演は大喝采を浴びたとのことです。
さて、テオドーア選帝候のマンハイム宮廷はモーツァルトが旅立った1778年に宮廷をミュンヘンに移すことになり、マンハイム宮廷の輝かしい時代は終焉を迎えることになります。その理由はバイエルン選帝候が1777年暮れに没した時、選帝候には子孫がいなかったため盟約によりカール・テオドーアが後継者になったということです。

 最後に、22才のモーツァルトがマンハイムを訪れた際、ザルツブルクの父レーオポルトに宛てた書簡からご紹介しておきます。『ああ、私達のオーケストラ(ザルツブルクの)にもクラリネットがあれば!フルート、オーボエ、クラリネットが入った交響曲の素晴らしい効果をあなたは想像も出来ないでしょう』

 

写真A

写真B