アントン・シュタードラー(Anton Stadler1753-1812)は、オーストリアのクラリネット奏者で、楽器の発明家でもあった。
同じくクラリネット奏者で弟のヨハン( Johann Stadler1755-1804)と共に、ウィーンの皇帝ヨーゼフ 2 世が 1782 年に組織した王立ハルモニー(オーボエ、クラリネット、ホルン、
ファゴット各 2 本からなる管楽八重奏団)のメンバーでもあった。
協奏曲イ長調 KV.622 は、クラリネット五重奏曲 KV.581 と共にバセット・クラリネットのために書かれ、アントン・シュタードラーに捧げられた。このバセット・クラリネットと呼ばれる楽器は、アントン・シュタードラーと宮廷付き楽器製作者テオドール・ロッツ(Theodor Lotz 1748-1792)の共同開発により生まれた。この新発明の楽器は、従来のクラリネットの最低音から、さらに半音で4つ分の低音を出すことが出来、楽器の管を長くすることと、4つのエクステンション・キイ(増設キイ)を取り付けることにより操作された。シュタードラーはバセットホルンの名手でもあり、バセットホルンの低音用の操作キイをモデルにして、バセット・クラリネット(当時はバス・クラリネット“ Bass-Klarinet”と呼ばれた)を開発した。
1788 月 2 月 22 日にブルグ劇場で行われたアカデミー演奏会(einer grossenmusikalischen Academie)のプログラム案内では、『シュタードラー氏が神聖ローマ帝国皇帝陛下の
持てなしにより、テオドール・ロッツ氏が製作した新発明の“Bass-klarinet”で協奏曲、及び変奏曲を演奏する。またこの楽器は通常のクラリネットよりも、さらに2つ分低音を出す
ことが出来る』と記載されている。このことから、当初この低音用特殊キイは2つが装着され、その後2つが追加されたと推測できる。なお、残念なことには、この時シュタードラーが誰の作曲による協奏曲を吹いたかは良く判っていない。
協奏曲 KV.622 は 1791 年秋に完成され、同年 10 月 16日にシュタードラーによりプラハの国民劇場(NationalTheatre)で初演された。ところが、シュタードラーの使用したバセット・クラリネットが紛失していること、又協奏曲 KV.622の自筆譜が、五重奏 KV.581(共にバセット・クラリネット用に書かれた)の自筆譜と共に消失しているため、この楽器の存在自体が約 150 年間忘れられる運命にあった。その代わりに、1802 年にオッフェンバッハのアンドレ社から出版された楽譜では、バセット音域(追加された低音部)は高い音域に移し換えて演奏できるように印刷された(譜例)。しかし、自筆譜が失われていても、協奏曲 V.622 及び五重奏曲KV.581 はバセット・クラリネットのため書かれたことは確実で、次のような文書により裏付けを得ることができる。
実際にバセット・クラリネットの形状を示唆した記述としては、1801 年、ドイツの雑誌“Journal des Luxus und derModern”(Friedrich Bertuch 記述)に見られる。『シュタードラ
ー氏自ら改良、発明した楽器が紹介された。彼の楽器は通常のクラリネットの様に、管がベルの部分まで真っ直ぐに伸びたものでなく、全体の長さの4分の1程の部分に、管状木
製部が取り付けられ、そこからベルが外部に突出している。
修正された利点としては、より深みのある音色を得たこと、最低音域はホルンの響きに類似したことである』この記述から推測するとこのバセット・クラリネットの形状は、明らかにT.ロッツ作のバセットホルンの形状を踏襲していることが判る。
このように、シュタードラーの使用した楽器の特徴が概ね想像でき、大変興味深い記述である。
そして、1992 年にアメリカの音楽学者パメラ・ポウリン(Pamela Poulin)により大変重要な発見が成された。これは、リガ(Riga)のラトヴィア・アカデミア・ライブラリー(Latvian
Academic Library)にて、1794 年 5 月 5 日のリガでの演奏会予告が発見されたことである。そこには、シュタードラーが独奏者として登場したことが記載されており、演奏されたの
は、モーツァルトのクラリネット協奏曲 KV.622、オペラ『皇帝ティトスの慈悲』K.621 からアリア、などであったことが判る。
これはシュタードラーの楽器について、明確な確証を得ることのできる発見であった。というのは、シュタードラーが使用したであろう楽器のイラストが掲載されており、これによりこの頃に使用したシュタードラーのバセット・クラリネットの形状をほぼ確実に伺うことが出来るからである。その楽器の形状は、長く伸びた管の先に、球状のベルが取り付けられて
おり、この形のベルを装着することにより、シュタードラーが求めたバセット音域(追加された低音部)の響きは理想に近づいたのかも知れない。バセット・クラリネットは、現在までの研究や発見を踏まえて、色々な形状のものが製作されたが、本日は英国の B.アッカーマン氏の協力により製作・復元されたバセット・クラリネットで演奏する。この楽器はツゲ
材製であること、真鍮のキイ(鍵)が施されていること、現代クラリネットに比べやや狭い内径を持っていること等、典型的な 18 世紀後期の古典クラリネットの様式を保っている。このバセット・クラリネットは通常 A = 430Hz(古典派ピッチ)で演奏する楽器であるが、本日のオーケストラが使用する A =440Hz で演奏するべく、楽器の微調整を施した。